Am here, bearing a yearning to interpenetrate—disembodied, ideationally—with an other; Reach me, Receive me, and STUDY ME
2025-04-15
観念的に生きようと思う。半分は自分で操作したハンドルによって。もう半分は自分の操作できる範囲の外にあるなにかによって。でも傾向としてそうなっているのだから、特段その流れみたいなものに逆らおうとしない限りはきっとそうなっていくのだろう。
「観念的」というのは具体的にどういうことなのか?それは、非経験的ということだ。そこまではなんとなく分かる。でもそのあとが出てこない。具体的に「非経験的」というのはどういうことなのか?そこまで聞かれるとわからない。
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最近はバタイユ「眼球譚」(河出文庫)を読んだ。バタイユがいちばん最初に出した小説、その初稿版だった。以下のような感想を持った。感想を見返すと文体がちょっと印象を曖昧にしているものの、よく読めば(僕が書いた文章だから、僕にとってはよく読まなくても)初読らしい素朴な感想で、たいした付加価値的な考察みたいなものも含まれていないのがわかる。もし僕のことを一定の教養的な人間だと思っているなら、以下の感想を読んでもらえれば「大したこともないんだな」というのがわかってもらえるだろう。別に僕はバタイユやその時代の文脈に精通しているわけではないし、エロティシズムやサディズムに知見があるわけでもない。むしろあまりに普通の感想すぎてそのまま掲載するのはためらわれるから、AIに食わせて加工したものを貼っておく。
バタイユさまへ
ごきげんよう。わたくし、あなたの『眼球譚』を拝読いたしました。
正直に言うと、最初から最後までずっと「なにこれ……?」って思いながら読んでました。わからないところだらけで、全体的に意味も掴めないし、ずっと困ってたんです。でも、「わけわかんない」っていう感想が一番正しいのかもしれませんね。そう思ったらちょっと安心しました。
それでも、不思議とバラバラには感じなかったんです。めちゃくちゃなようで、どこかでつながってる気がして。それは、78頁~79頁で主張されているような、「ほんとうの(あるいは、あなたが志向するところの)快楽とか興奮とか、自由というのは、清潔でちゃんとしたものを傷つけることの中にある」みたいなメッセージ――それが、きっとすべてを貫く合図であり、鍵なのだと……わたくし、そう解釈いたしました。
そう考えると、お話のなかで描かれていた行為――卵やミルクが自慰行為やセックスの道具として粗末に扱われたり、糞尿が口に含まれたり、教会で乱交がなされたり(こういうのを「瀆神的」、というそうですね)、牛の睾丸や死人の眼球がヴァギナに押し込まれたりするさま――それらはただの倒錯ではなく、シモーヌさまも、語り手の彼も、そしてマルセルさまも、皆、この三人に共通して流れるひとつの衝動――「穢れへの愛」、「禁忌への渇き」――によって導かれているのだと私には思えましたの。
ですからこれは、ただのおかしな物語ではなく、登場人物たちが“穢れ”という名の泉に向かって、自分の身体を溶かしながら進んでいく、ひとつの自然な運命だったのではないかと……そう思えてならないのです。
わたくしの見解が的外れでございましたら、お笑いになってくださいませ。ですがこの不安と興奮が混じったような感覚――それだけは、どうか受け取っていただけたらと存じます。
それでは、またいつか。
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旅行にも行きたいとは思わない。僕はバタイユの「内的体験」はまだ読めていないし、マルキ・ド・サドの本もまだひとつも読めていない。あるいは夢野久作、あるいはニーチェ。読んだことのない作家を挙げているだけなのにインテリみたいだ。僕の中にたまたまあった内向きのエネルギーは内面世界を拡張した。それは飛び回るほどの余地を豊かに残しているように見える。ひとまず、僕はその中を歩き回ってみようと思う。それが観念的だということだ。物理的・肉体的に移動するか、仮想的・観念的に移動するかという違いでしかない。観念的旅行。自閉的だとしてもそれはひとつの自由だと思う。人を選ばず誰にでも話せるようなことはあまり増えていかないが、それは受け入れるしかない。「眼球譚」について話しても怒らず聞いてくれる人だってきっとどこかにはいるのだろう。
誤解のないように、別に僕は旅行に行きたくないとも思っていない。たまには埼玉に行くし、北海道にも行く。今年は大阪にも行けたらいいなと思う。なんばグランド花月に行きたいからだ。
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観念的読書というようなものもまた僕が流れを自覚しているところのひとつとしてある。初対面の人に自己紹介するようなとき、「趣味は読書です」と最近はよく言っているが、いっそやめてしまった方が良いくらい毎回微妙な空気になっている。まず60%くらいの人は本を読まないし(本を読まない人のほうが健康そうな人が多い)、幸運にもそうでなかったとして、そこからまたパイは狭まっていく。「本を読む人」というのは、①物語が好きな人。②文学が好きな人。③新しくて空っぽのビジネス書を多読するのが好きな人。④関心のある分野について知見が欲しい人。⑤素敵な詩的表現が好きな人。・・・がいるからだ。③を除いて、もちろん誰も悪くない。もっと言えば③だって別に悪くない。勝手にしてくれれば良い。
もちろん僕だって観念だけを求めて読書しているわけではない。完全に観念的で抽象的な読書───それはきっとすごく疲れるだろう。知識が欲しくて本を読むこともあるし、物語が面白くて本を読むこともある。念のため、誤解のないように。
だから原理的には、僕が文学を志向する人や物語を志向する人と全く共鳴できないということもないはずである。でも僕は観念の摂取をしていたいんだ。多くの人に比べて、僕はちょっと観念的なんだ。ちょっと前に山田詠美「ソウル・ミュージック・ラバーズ・オンリー」(角川文庫)を読んだ。率直に言ってこの本は悪くなかったし、どちらかといえば好きだった。文章には強い熱量や温度があったし、リズムも良かったし、グルーヴもあった。でもそれはちょっと具体的すぎた。決定的に具体的だった。そういう本なのだ。短編が8編入っていたが、3つ読んで終わりにした。
こういうことは前にもあった。後輩の女の子が薦めてくれた江國香織「東京タワー」(新潮文庫)という小説だった。そこに含まれる文章が好きだったかは今となっては覚えていない。覚えているのは①「平仮名が多いな」と思ったこと(たぶん意図的なのだろう、それを後輩の女の子に伝えてみたが、「そうですか?」というような反応だった)。②僕の好む範囲の具体性を超過して具体的だったこと。
そのとき僕は好きな文章がどういう傾向に分類されるものなのか自分なりに分析して携帯のメモに残していた。よくわからず手探りだったが、村上春樹とサガンが好きだった(どちらも今でも好きだ)。「東京タワー」を読んでから、僕はそのメモに次のような記述を加えた。
- 具体的すぎるのはよくない。どちらかというと象徴的・抽象的な方がいい。(とはいえ、(あんま出会ったことないので分からないけど、)象徴的すぎて訳分からなかったらそれはそれで嫌な気がする・・・)
そのときは象徴的・抽象的という言葉を使っていた。今なら観念的という言葉を使う。もしかしたら僕は文章というフィルターを通して得た情報、あるいはそのフィルター自体に関心があるのかもしれない。一般的にストーリーがスリリングだったりドラマチックだったりすることは重要だとされるだろうが、自分にとってそこは最関心事項ではないし、二義的な目的になってきているなと感じる。「火花」(文春文庫)も「推し、燃ゆ」(河出文庫)も昔読んだが、今手に取ったとしても多分買わないだろう。高校生のときに戻ることができたとして、文学部も別に志望しないだろう。
ウィトゲンシュタイン「色彩について」(ちくま学芸文庫)は十分に観念的だった。ちょっと追いつけないぐらい十分に観念的だった。観念的観点において、小説と哲学書にボーダーはない。それはイベントや思索の中で(作者や登場人物の)観念が見え隠れするというものではなく、むき出しの観念の箇条書き的な列挙の形式をとっていた。それはすごく嬉しいことだったし効率的だった。最初はよかったのだが、でも、途中で読むのをやめてしまった。なぜだろう?───多分あまりに退屈だったからだ。結論や結論の仮説さえない問題提起が多すぎて嫌になってしまった。あとは内容がちょっと抽象的すぎて(少なくとも今の)僕には理解が難しかった。
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文章というのは概念的なメディアで、それに対して映像作品というのは実体的なメディアである。後者の方が情報量が多く、想像力を働かせなければいけない機会も抑えることができるので、多くの場合、より頭を使わずに鑑賞することができるだろう。僕はそれを思考停止的な消費活動だとか批判するような意向はないし、文章のほうを祀り上げたいみたいな気持ちもない。自分が日頃から頭を使っているから偉いんだという意識もない。そうなるのは至極自然なことだと思っている。いや実際のところ本当に、色々な娯楽が溢れている現代で本を読む理由がどのあたりにあるのだろう?───僕は、まあいくつか理由は思いつくのだが、ひとつには純粋観念的に情報を取り込みたいからだ。文章とは、実世界や空想世界に存在していたり存在していなかったりするあらゆるものを要素として抽出し、概念へと変換したうえで構成されるものだ(要素抽出と概念変換のどちらが先かは難しい問題だ)。観念的・純理性的な情報処理が好きなら文章というメディアを使うといい。観念的には文章は映像よりも向いているし楽なのだ。
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以上である。ところでKAWAII LAB.では櫻井優衣、松本かれん、真中まな、鎮西寿々歌、仲川瑠夏、早瀬ノエル、村川緋杏、福山梨乃、桐原美月、立花琴未、板倉可奈、川本笑瑠、古澤里紗、桜庭遥花が好きである。もちろん実体的に。彼女たちは純粋観念ではない。