「電気羊」への敬慕、内在化された記憶、傷跡、それが損なわれたことへの悲しみ、疲弊

2025-04-12

「ロング・グッドバイ」というタイトルの曲がマカロニえんぴつによってリリースされていることを知った。1週間くらい前のことだ。その事実をきっかけとしていくつかの想念が思い浮かび、そして通り過ぎていった。端的に言うなら、ここで生じた想念というのは大きく次の二つにまとめることができる。

1. この曲はチャンドラーの「ロング・グッドバイ」と関係があるのだろうか?
2. もしそうだとするなら、それは芸術作品のタイトルとしてあまりに挑戦的ではないだろうか?

そこに一種の思い上がりや傲慢さみたいなものを感じないこともなかったが、でもそこまで大きな問題ではないだろうと思った。可能性はいくつかあった。①彼らは無知なのだろう。②あるいは恐れ知らずなのだろう。③あるいはそれはすごく自信のある曲だったのだろう。いずれにせよ僕が首を突っ込むような話ではないように思えた。まあ別に勝手にすればいいんじゃないか、それに彼らがチャンドラーを意識してこういうタイトルを付けたとも言い切れないラインだった。

こういう思念にはきっと、僕が別にチャンドラーの「ロング・グッドバイ」を読んでいないことが関係している。もっと言うと僕はチャンドラーの本自体読んだことがない。ゆえに特になんの思い入れも持っていない。マカロニえんぴつについても特段なんとも思っていなかった。それはバンドだ。何曲か聞いたこともあった。



だが「アンドロイドは夢を見るか?」というタイトルの曲が公開されているのを見たときは一瞬で本当に嫌な悲しい気持ちになった。厳密にはそういうタイトルの曲が存在していること自体はべつに問題ではない。ああ、それはYouTubeの「急上昇 最新」のチャートだった。動画のタイトル、その文字列に含まれるアーティスト名、そしてサムネイルが目に飛び込んできた。僕は反射的にそれを再生した。それはだいいちに、というよりも、第0番目に、と表現した方が正確に思える滑り込むような再生ボタンの押下だった。それから遅れて入ってきた情報を整理していった。アンジュルムというアーティストだった。アンジュルム?僕はそれを知らなかった。ひとりの女の子が淡い目つきで正面を向いているサムネイルだった。それは日本のアイドルにも韓国のアイドルにも見えた。あるいはVTuberにも見えた。

そのあたりで曲はもうある程度再生されていて、嫌な気持ちや悲しみが覆されないこともまた確定していた。15秒か20秒、その曲の「電気羊」性の概要を理解するには十分な時間だった。それから僕は蛇が卵を飲み込むようにゆっくりとそこにある事象を処理し、受け入れていった。



まず、アンジュルムというのはハロー!プロジェクトというプロジェクト(それは実のところなんなのだろう?)に属している日本のアイドルグループだった。僕はアンジュルムというグループのことは初めて知った。(アンジュルムを聴いたことがあってフィリップ・K・ディックを読んだことがない人間と、フィリップ・K・ディックを読んだことがあってアンジュルムを聴いたことがない人間に優劣をつけることはできるのだろうか?)正直言って、僕はハロー!プロジェクトのこと自体ほとんど何も知らない。

勉強不足だ。



「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」は僕にとってすごく大切な小説であり、フィリップ・K・ディックもまた僕にとってすごく大切な小説家だ。筋は本を読むなりWikipediaを読むなりしてほしい。その本には、感情移入を判断材料にして機械と人間を区別するための装置が登場する。それはそのまま、それらを隔てる───唯一的な───要素が感情移入だということを示唆する。小説が書かれたのは1968年のことだ。それは驚くほどに洞察的であり、多分に鋭い指摘だ、とみんながいう。ここまでは極めてありふれた「電気羊」の感想だろう。ところで僕が初めて「電気羊」を読んだのは大学生のときだった。そのときに学術的厳密さに寄りすぎていない科学読み物、それもトピックがAIに関するものを読むとみんな「電気羊」と「2001年宇宙の旅」を見ろという風に書いてあった。僕は前者を買って読んだが、後者は機会がなくて結局見ないままになってしまった。

「電気羊」はまた、すぐれた(リアルな手触りを持つ)SFというのがどういうことかというのを教えてくれた。そしてこと僕にとっては、つまり特に個人的な意味合いでは、その本はひとつの責任の取り方みたいなものを僕の中に印象づけた。主人公はアンドロイドを葬る賞金稼ぎで、自らの中に生じた煩悶にけじめをつけるために、アンドロイドのレイチェルと性交する。ああ、まさにそのシーンをすごく大切にしていたときがあった。リックは「ふたりでホテルの部屋を借りよう」と電話でレイチェルを誘った。それは性交を前提としているにもかかわらず色欲の嫌らしい感じがなく、むしろ品のようなものをまとった誘い文句だった。こんなこともあった───邦訳で読んだおっぱいという言葉(それはたしかテレビ女優のものだったりレイチェルのものだったりした)が原文でどうなっているのか気になり、原文を買って読むことにした。それはboobsではなくてbreastという言葉になっていた。そう、それは解釈一致だった。ひとりで英語の文章を読んで、それでうれしい気持ちになった。あるべき単語づかいが実際に存在していたからだ。日本語にいい言葉が見つからなかっただけで、それは硬質でニュートラルで、華やかでない、いうなれば学術的な───医学的な、といっても差し支えないのだろうか?───語彙で書かれるべきものだと僕も思った。そしてそれはその通りになっていたということが原文を通して確認できた。

原文を読んだちょっとあとに───全部は読まなかったと思うが───、「最近読んだ本はありますか?」みたいな質問が大学の英語の授業で来たことがあった。それでDo Androids Dream of Electric Sheep?を読んだ、と僕は答えた。するとなぜそれを読んだんだというようなことを聞かれた。僕は率直に焦った。その動機が乳房の表現の仕方についてのことであるということを簡潔にかつ有効に言えそうにもなく、そもそも英語のスピーキングでそういったことを正しく伝えられそうなイメージも全く見えなかったからだ。

「電気羊」は「ノルウェイの森」(村上春樹)と僕の中で重なった。「ノルウェイの森」ではキズキが残していってしまった直子に対して主人公が責任というものを感じていた。ワタナベはもういないキズキに問いかけた。──────[俺はもう十代の少年じゃないんだよ。俺は責任というものを感じるんだ。なあキズキ、俺はもうお前と一緒にいた頃の俺じゃないんだよ。俺はもう二十歳になったんだよ。そして俺は生き続けるための代償をきちっと払わなきゃならないんだよ。]──────

ワタナベは年齢の止まったキズキと対照して、もう自分はこういった特定の年齢になっていて、どういった責任が社会に対して生じているかというのを自問し、自分なりに仮説だてて行動していた。「電気羊」にそういった責任性についてのテーマが据えられていたか、ということについて改めて考えると特にそんなことはないような気がする。もしかしたら、そういったコンセプトは「電気羊」に別に一切横たわっていないかもしれない。それでも、僕の中では「ノルウェイの森」と「電気羊」は不思議と重なり、ひとつの責任の形みたいなものを僕に残した。それで「電気羊」に基づいて女の子と寝たこともあった。相手はアンドロイドではなく、現実世界の女の子だった。自分はSFの住人でもバウンティハンターでもないのに、自らをリックと重ねてそういった不可逆的で核心的な行動を実行した自分は痛い人間だったかもしれない。そういった不安はその時にもあったし───それは飲み込まれてしまいそうなほど大きかった───、今も変わらず有体積的に僕の中に存在し続けている。大きくて固いからすみが縦になって体の中に入っているような感じだ。でもそれは自分なりに考え抜いた上での答えだった。僕の状況と女の子の状況とそれ以外の外部環境の状況を見て痛みの存在しない選択肢というものはまず存在しないように思えたし、そして、僕が取るべき責任のとり方───いちばん良いと思える選択肢───というのは二人で予約するホテルの部屋の形をしていた。だからそのようにした。正当化するわけではないが、少なからず僕も代償を払ったことだ。「電気羊」はそういった、他人の責任を負うような選択と短くない年月に、また僕の悩みであったり実感を伴う具体的な経験に紐付いた本だった。大層な言い方をすれば「電気羊」は僕の、および他人の人生を動かす根拠あるいは判断材料となっていた点で重要な本だった。



それで、この曲はなんだろう?まず「電気羊」を意識したタイトルであることは明白だが、タイトルからは「電気羊の」という部分がカットされている。それはなんかもうどうでもいい。どちらでもまあいい。どちらだとしても別に納得しない。もちろん、フィリップ・K・ディックが言っているのはアンドロイドが夢を見るかということじゃない。アンドロイドが電気羊の夢を見るかということだ。なあキズキ、フィリップ・K・ディックが言っていたのはそういうことじゃなくて、アンドロイドは電気羊の夢を見るか、ということなんだよ。

「電気羊の」、がカットされたことで主題が指し示す光景はシンプルになっている。僕はこの曲の制作背景を想像する───被害妄想的に。

  • アンドロイドは生命を持たないよね。
  • 感情も持たないよね。
  • でも夢を見ることってあるのかな。
  • 恋しかった何かのことを思い出したり、過去の悲しい思い出を追憶したり、これまでの経験がごちゃまぜになった幻覚を見たりするのかな。
  • あるいは将来の理想を思い描いたりすることももしかしたらあったりするのかな。
  • もしくはそんなことないのかな。

 

併せてこの自作の制作背景(想像)に対して思いつく2つの論点も並べておく。

①ここでの「夢」に睡眠時のものと未来の希望といった意味合いのものの区別はなされているのだろうか?───・・・僕が思うに、それはなされていない。どっちかわからないのもいいよね。受け取り手に解釈をゆだねる感じが。ああ、こういうのをなんと形容すべきか教えてやろう。とにかく表面的で、根底のない薄っぺらなダブルミーニングだ。中身もないのについでみたいな考察性を建てつけようとするな。

②ここでのタイトルに「アンドロイド」という言葉を使う意味や必然性のようなものはあるのだろうか?───・・・それももはや別にないだろう。「アンドロイド」というのは、フィリップ・K・ディックの「電気羊」みたいなタイトルつけてみた! という一芸、言いようによってはひとつの知的でおしゃれなアクセントか気の利いた商業的テクニック、言いようによっては小細工なんだ。そのフックが使いたいからそういう言葉を使っているだけなんだ。本当は「アンドロイド」じゃなくて「ロボット」でも「AI」でも「ヒューマノイド」でも「オートマトン」でもなんだっていいんだ。───



勝手に想像しておきながら、それでも、僕は強い憤りを覚える。もちろん、すべては被害妄想かもしれない。見当違いかもしれない。でもこうとしか思えないアウトプットが存在しているのだから、こっちとしてはどうしようもできないんだ。それはそうに違いなくて、それは邪悪なんだ。僕は被害者なんだ。僕が大切にしている領域に侵入されたのだから、僕がそれを攻撃するのは当然なんだ。先に手を出してきたのはそっちで、これは必要的な自己防衛にすぎないんだ。───

コメント欄には僕が思っているような指摘はないだろうか?───ない。ああ、ハロプロの若いアイドルの女の子が歌っているMVのコメント欄にどれだけ「電気羊」を知っていたり読んでいたりして、そのうえで怒っている人がいるだろうか?───

とにかく、僕が理解したところには、その曲はそういう軽薄なタイトルをしていた。そして、曲は曲で本当に悲しくなるような曲調と歌詞とMVをしている。ごめんな、アンジュルムの女の子は別に悪くない。本当に頑張って準備して、歌って、踊って、お化粧をして、撮影をしているのだと思う。アンジュルムのメンバーが何人いるのか、僕はよくわからないが、女の子のうちのひとりが「フィリップ・K・ディックはそんなことを考えて「電気羊」を書いたんじゃないと思います!」と立ち上がるわけもない。───ならば誰かが悪いのか?作詞家が悪いのか?それもわからない。僕はどこに対して嘆いたらいい?たとえば仮に作詞家が「電気羊」をくり返し再読し、その小説に含まれているテーマを噛み砕いたうえでそこに象徴されているものをひとつの楽曲に有効に起こすことができたとして、それで誰かが喜ぶのか?そもそもそういった「電気羊」的な要素を含む楽曲制作は作詞家ひとりの手によって構想され具体化されるものなのか?根本的に、それはアイドルソングとして成り立ち得るものなのか?それともアイドルソング云々という話でもなく、「電気羊」を根底に置いたような曲作りをすること自体が破綻しているのか?───

歌詞

アヤヤヤー!
なんちゅー なんちゅー 新時代
ほんじゃあ ほんじゃあ どうすんだい
Ah Ah You and I
さぁ 勝負だ 全・人・類!
空欄の進路希望票
こんな時代 どうすりゃいいんだい
AIの侵略も相当
早まるって噂だし

終わりだ。ああ、本当になんというかもうなんというか、本当に限りなく悲しい気持ちになる。Twitterで「@grok ファクトチェック」というリプライが疫病的に流行し、インターネット空間が埋め尽くされ、そのことを「知能の凋落だ」とかなげくポストもまた疫病的に大量発生していることなんて、どうでもよくなるぐらいに哀しくなる。失墜。現代世代のJ-ポップミュージックはこんなことになってしまっているのか、あるいは現代人の知性はこんなにも地に落ちてしまったのかと思わず憂いてしまうような、本当にどうしようもできない気持ちになった。板張りの床に叩きつけられるような思いだった。頭の中に不可思議/Wonderboyの「Pellicule」が流れてきた。でもこうやっていろんなことが終わってくんだもんなっていや始まってすらいないか。グラスの中の氷はとっくに溶けてなくなって俺達以外にもう人は誰もいなくなっていた。本当は多分何もずっと変わってはいない。僕が年を取って、なにかを無条件的に受け入れることができなくなってしまった。そして僕が勝手にどこかに行ってしまった。それだけだった。

フィリップ・K・ディックは少なくとも、「アヤヤヤー!」から始まる「電気羊」を文字ったポップソングが制作されるために「電気羊」を書いたのではない。───だからといって、「愛はセックスの別名だ」から歌詞が始まるような「電気羊」オーセンティック踏襲的曲作りがなされるべきかといったら多分そんなこともない。きっと前述したように、「電気羊」をもとに歌を作ろうという試み自体が間違っているのだろう。

歌詞はつづく。

人類〈ひと〉の アイデンティティ
それは バイタリティ
さしずめ “身体”が資本
すぐ シンギュラリティ?
君のグラビティ
感じたい ぎゅっと抱きしめて
「アンドロイドは夢を見るか?」
命燃やし 愛を謳う
誰かのため 汗を流す
捨てたもんじゃないだろ、
人類も!

おいおい、〈ひと〉のアイデンティティは身体性にあると言ってるのか?フィリップ・K・ディックは〈ひと〉のアイデンティティの限りない喪失と、(誤検出を完全に拭い去ることができないような)きわめて脆弱で曖昧なアイデンティティとしての感情移入を予言した。1968年に。かたや、我々は2025年にあり身体性のアイデンティティ性を主張している、それは───ああ、もしかしたらすごく2025年的考え方なのかもしれない。たしかに2025年の時間断面において、〈ひと〉はアンドロイドに身体的に優位だと言えそうだ。この曲が一定水準のリアリズムを満足するサイエンス・フィクションでなく、未来予測も前提としないなら、つまりフィリップ・K・ディックと同じような設計思想に基づいたものでないなら、それは有効な主張なのかもしれない。シンギュラリティがどうとかいうのはもういい。もうこういうのを取り締まっていても本当に切りがないし仕方ないから、本当は本当にやめてほしいがもう勝手にしてくれればいい。君のグラビティ、ああ、感じたいのもわかる。これは節が紛れている場所が全体としてアレすぎて、もう正常な判断はアレだが、でもすぐれた表現であるような気もする。アンドロイドはとりあえず2025年において、おおむね仮想的なもので、身体性をもたず、〈ひと〉は身体性に唯一無二のかけがえのない価値があって、我々はあなたの重みを感じることができる。一貫的な主張だ。



人類〈ひと〉の アイデンティティ
それは メンタリティ
思い遣りあえる 本能
シンクロニシティ
君のセキュリティ
暴かず 分かり合えるよ

ここにはシンギュラリティという単語が出てこない。いい傾向だ。シンギュラリティなんて一単語でも少ないほうがいい。もうちょっとあとにディストピアという言葉が出てくるようだが、それはもう好きにしてくれればいい。ここでは、〈ひと〉のアイデンティティは思い遣りあえる本能にあると言っている。ああ、身体性だけでなく、精神性にも〈ひと〉にはアイデンティティが残っている。フィリップ・K・ディックより楽観的だ。思い遣れる本能?これは感情移入のことを言っているのか?思い遣る行為それ自体、いわば理性的な思い遣りというものがあるとして(あるだろう)、それはきっと誰がどう見ても───当然「電気羊」においても───、〈ひと〉と〈ひと〉以外を区別する根拠にはなり得ないだろう。思い遣りの本能、それが他者の痛みや喜びを、本能的・生来的にそして反射的にまるで自分のもののように分かち合うことを指すなら、これは感情移入そのもので、それは「電気羊」に深く準拠した指摘といえるだろう。ならばこの曲は本当は「電気羊」に根ざしたものだったのか?それとも単なる偶然だろうか?ディックの魂はそこに宿っているのか?もしそうなら、それは意図的なものなのだろうか?───

シンクロニシティ。もしここがエンパシーアイデンティフィケーションだったなら?もうちょっとだけ、本当にもうちょっとだけ(僕にとって)良かったかもしれない。ひとりの少し読書をする素人の個人的な充足が少しだけ得られたかもしれない。もちろんそれはほとんど何の意味も持たない。無意味で無価値なポイントの獲得。シュード。

恋に落ちた アンドロイド
眠れぬ夜 過ごしたらしい
そこのカフェで 話聞くよ
未知の遭遇、あっての人類じゃん!

ここにも〈ひと〉ならではの魅力が書かれている。ここにコメントするべきことは簡潔だ。それは間違っている(命題論理的ではなく、語用論的な意味で)。未知の遭遇、偶発性。アンドロイドに偶発性が生じないという主張には妥当性がみとめられない。

ああ、僕はやっぱり、これはちょっとどうしてもそういう知的・近未来的・サイバー世界的なコンセプトでちょっと一曲作ってみよう、という(もちろん本気なのだろうが、「電気羊」的には)軽めのノリで作られた楽曲とそのミュージックビデオに見えてしまうので、できれば「電気羊」に近くないところでそれはやっておいてくれれば嬉しかったなと思う。ああ、まあ───でもまあ頑張って欲しい。僕はなんか、なんというか1週間分くらいの元気が吸い取られてしまった。しばらく、省エネルギーで生活をしようと思う。