春における形の喪失
2025-04-27
スピッツの「春の歌」を聴くと自分がちっぽけになったような感じがする。率直で美しいからだ。十分に美しい。ではもっと修辞的であれば十分にではなく完璧に美しいものになるのか?───もちろんそうではない。それはそのままで、十分に、かつ落ち度なく万全に美しいのだ。
僕は自分の文章が無効化されたような気持ちになる。こねくり回したみたいな文章だ。原稿を書いたあと、誤字脱字とか違和感のある点を指摘してくださいとAIに書いた記事を大体投げるようにしているが、「ここはやや堅い表現です」とか「やや冗長な印象です」とかいうようなことをよくフィードバックされている。そういう文章が良いと思っていて、そうなるように書いているのだ。あるいはそれは僕の思考のスタイルそのものなのだ。だから指摘は直したり直さなかったりしている。
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昨日の夜は24時くらいに友達から電話がかかってきた。自分の仕事に対してなんか慢性的なうまく行かない感じとかもやもやした感じを抱いているみたいだった。趣味にもなかなか手を出せず、生活に全体的に閉塞感みたいなものが立ち込めているみたいだった。彼は石と漢方の売買を副業として始めることによってそれを打破してみたいと思っているらしい。小さいはさみで眉毛を切りながら僕は話を聞いていた。
昼間に家を出て古本屋に行き、それからスパゲッティを食べに行った。ハーフアンドハーフのスパゲッティを頼むと店員がカルボナーラとジェノベーゼがそれぞれ皿に盛られたプレートを持ってきてくれた。半分のものが2つ出てくるみたいな感じかと想定していたら7割くらいのものが2つみたいな感じのプレートになっていて本当に量が多かった。苦しい思いをしながらスープを全部飲んだ。それで満腹になって何もできなくなってしまった。眠かった。
待ち合わせの時間まではまだだいぶ時間があった。今は14時過ぎで、待ち合わせは19時だった。
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誰にでもできることというわけではないと思うのだが、僕は非対格動詞と非能格動詞についていくつか話すことができる。それらについての記事を2本書いたことがあったからだ。端的に言うと自動詞のサブカテゴリについての話で、別のインターネットメディアに掲載もした。①「非対格動詞・非能格動詞について、分かったことと分からないこと」。②「【加筆修正版】非能格動詞・非対格動詞について」。どちらを書いたのももうしばらく前になる。トピックは同じだ。後に書いた記事の方が全然良く書けている。議論が整理されているし正確性も高く、議論の流れも順序立てられている。より多くのことを理解することができる。でももう片方の方がより広まっている。
不完全なものが広がっていくのは(それが限定された範囲にしか影響を与え得ないものであるにしろ)あまり良い気持ちではない。だからといって僕がその広がり方をコントロールできるわけではない。それは波紋のように、あるいは渦のように現象として連鎖していくものなのだ。そして多くは消えていき、ときにはその一部が残る。
でもたしかに自分だって後の方の文章を読む気はしないのだ。前の方の文章のほうが魅力的だ。議論がより網羅的で整理されているからといって、文章としてよりすぐれたものになるとは限らないみたいだなと思う。かつてそこにあったリズムとか冷たさとか脆さみたいなものが失われてしまっている。
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小田急線に座って寝ようとしたが端の席に座ってヘッドホンを取っても寝ることができなかった。寝転がって眠りたかった。登戸駅で電車を降りてスーパーでハイネケンを買って多摩川に向かった。瓶を手で掴んで持って行ったので着くころには体温でぬるくなっていた。いつものように、スケートボードのコミュニティがあった。ひとりは上半身裸で滑っていた。他にもカップルが手押し相撲をしていたり二人組の男の子がキャッチボールをしていたりした。
僕はビールを飲もうとして栓抜きが必要である/それを持っていないことに気がついた。だが、実家の鍵を使って少しずつ金属栓をめくっていくと、5分くらいかけて蓋を開けることができた。それでビールを飲みながら本を読んだり空を見たりしていた。ショーペンハウアー「自殺について」(岩波文庫)を読んでいた。内容は難解だった。全然意味が分からないことを言っていた。くしゃみが良く出た。1人で川辺にいるわけだから、手で口を覆う必要もない。
本を買ったときには別に文章自体は理解できなくても導入されている概念だけちょこちょこ拾えればいいかなとか思っていたが、読んでみるとやっぱり一定理解したいという気持ちにはなっていた(最後までそういう気持ちが持続するかはわからなかったが)。彼は次のような主張をしているように読み取れた。・・・──────人間は時間と空間の形式の制約のもとにしか表象を知覚することはできないが、本来は時間も空間も幻影で存在していない(非直感的だ)。死は我々一個体の時間的終末のことだから、つまり死は時間の概念に由来する(時間概念を礎として成立する)概念といえるだろう。だから、死は我々にとっては破滅に見える。──────・・・もし僕が彼の主張するところを正確に読み取れているとしたら、それは、我々以外にとっては死は破滅ではないということを含意するだろうか?
彼は何かしら憧れているものを手に入れることは、それを空しいと覚ることであると言っていた。僕はそれに妥当性を感じた。昔ドーパミンについて書かれた本を買って読んだこともあった。それにも同じようなことが書かれていた。ニューロサイエンスが後発的に彼を裏付けるのだなと思った。
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1時間くらいそこにいたが結局眠りにつくことはできなかったしビールもなくなった。それで諦めて立ち上がって街を歩くことにした。スーパーマーケットに行ったりブックオフに行ったり眼鏡売り場を見に行ったりしたが何も収穫はなかった。お腹もいっぱいでどこか適当な店に入る気もしなかった。喫茶店に行くことも考えたが、本を読むことも文章を書くこともその日はもうそれ以上したくなかった。どちらも十分やりすぎていた。それで大体いつもはすることがさっぱりなくなってしまうということもないのだが、その日は本当にやることがなくて完全な暇になってしまった。結局歩き疲れてまた酒を買った。氷結の短い缶だった。それで近くの公園のブランコに座り、音楽を聴いてそれを飲んでいた。右側と左側のベンチには人がいた。生活には何の進捗もなかった。