殺人熊のシチュー
2025-01-14
夜行バスの出発は23時半だった。30分前にターミナルに着いてベンチに座っていた。人はそれなりに多かった。夜行バスは寝ているうちに利用者を目的地まで送り届けてくれる魔法みたいな乗り物だし、それに安かった。休息と移動を同時に提供する名目だった。でも実態としてはそういう素敵なふれこみにかかわらずそれほど人気がなかった。
僕はベンチに座ってツイッターを見ていた。乗車可能時刻はまだだった。外側の席は取れなかったし、積み込みの荷物もなかったし、ゆえに乗車を急ぐ必要はなかった。大型台風のニュースがあり、米の買い占めが起こっていた。惣菜パンやカップラーメンなんかも売り切れているみたいだった。帰りのバスが普通に運行されるかは五分五分くらいに思えた。
バスに乗り込むと7割くらいの席は埋まっていた。隣には人がいなかった。人数確認はスムーズに進んでいたから、もともと空席みたいだった(なぜだろう?予約がキャンセルされたのだろうか?)。途中で人が乗ってくるような停留所も予定されていなかった。それで僕は窓側に座ることにした。それでバスは間もなく走り始めた。
15分くらいしてすぐに消灯の合図があった。でも寝ようという気持ちにならなかった。目をつぶっても眠りに落ちることはできないことが前もってわかった。僕はイヤホンを取り出して携帯に接続し、音楽を流した。携帯の画面の明るさを下げてまたずっとタイムラインを見ていた。寝ている人はこれくらいの光を気に留めるはずがなく、起きている人は車内に発光機器があろうが問題であるはずがなかった。それに僕は画面の明るさを下げるという譲歩を示していた。
タイムラインは一通り見てしまって、気になる記事はもう特に残っていなかった。それでも他にすることもないから2周目に入った。興味のない記事を読んだり興味のない記事のコメントを読んだりしていた。熊のニュースがあった。熊が農村の市街地に降りてきて、まず一つの家族が死傷を負った。父・母・子・祖母の4人家族だった。熊は倒れた母子の頭や肩を食ったという。子は死亡が確認され、母は意識不明だった。
それで時間を見ると1時前だった。車は高速道路の上をつつがなく進んでいた。冷房が必要ないような、涼しい風の吹く晩夏の夜だった。僕は窓を開けたいなと思った。高速道路を走り抜ける強風は気持ち良いだろうなと思った。でもそれはさすがにそれはためらわれたので、黙ってカーテンの隙間から外を見ていた。僕はイヤホンを浅く着け直し、やがて短い眠りについた。
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5時半くらいに仙台に着いた。僕は運転手に一礼を言ってバスを降りた。仙台に帰ってくるのは久しぶりだった。特に帰る理由もなかったからだ。旧友に会う予定の時間は19時だった。それまでにはかなり時間があった。行きたいところは特になかった。僕はハンバーガーを食べたりアイスコーヒーを飲んだりパチンコ屋に行ったりして時間が経つのを待った。パチンコ屋に入るのは2回目だった。台に座ってから僕にできることはないようだった。工夫の余地のない退屈な遊戯だった。頑張っても結局120分くらいしかそこで時間を使うことはできなかった。それでバスロータリーのそばのコンビニで缶ビールを買ってから、適当な市営バスに乗った。それが夕方くらいのことだった。終点には何もなかったがうらぶれた売店がひとつだけあった。次のバスに乗ればちょうどいい時間にはなりそうだった。僕は売店でもう一本缶ビールを買い足して復路のバスに乗った。
久しぶりに会った旧友はヘドロみたいなセックスの話ばかりしていて終わっていた。ゴムを付けるとかつけないとかとかそんな話だった。聞きたくもないセックスのディティールとポリシーだった。一番傲慢で侮蔑的な部類の談話で、それに低俗だった。僕は飲み会が始まって1時間くらいでああここまでわざわざ戻ってくる意味は全くなかったんだなと思った。
必要な情報交換はとっくに終わっていた。ずっと前から無意味な場つなぎの連続だった。我々は社会人になっていたから、こういう聚合には日時の調整があり、いくつかの予定のリアレンジがあった。その対価として得られたものは何だっただろう?それは発泡スチロール製のスイカみたいな、取るに足らない飲み会だった。確保された時間は、与えられるべきだった時間を大幅に超過していた。スーツケースに一つだけ石鹸が入っているみたいな、とにかくもてあました時間だった。僕はそれを空しく感じることもなかった。ただ脱出の方法を考えていた。物理的な脱出はどうやらできなさそうだった。だからできる限りの精神的な脱出を心掛けるほかなかった。そっちはどうなの?みたいな僕に対する投げかけがあった。前に彼女がいたのはいつ?僕は1年くらい前かなと返事した。話がいちばん広がらないような返答を心掛けた。それでも旧友は楽しそうに盛り上がっていた。だんだんと質問は僕の方に飛んで来ないようになった。
本当にやることがなかった。こんな話に耳を傾けるのはまったく意味がないことに思えた。何もせずただぼーっとしているだけの方がずいぶんましだった。それでKindleで本を読むことにした。こういう騒がしい飲み会での読書は完全にこの話には参加しないという意思表明を意味する。内向きでささやかな抵抗だった。これまでの関係性やこれからの関係性。それももういいやという気になっていた。読むことにした本はそれはそれでつまらないものだった。仕方ないからさっき妥協的に買っただけの適当な選択だった。問題提起を目的とする文章だったが、1章で主張は全部終わっていた。あとは全部タイトルに関連したトピックを集めただけの引き伸ばしの文章だった。
熊に襲われればいいのになとふと思う。ここに急にガラガラと扉を開けて熊が入ってきて、いっぺんに全員食べられちゃえば平和なのになという気がした。それで真っ先に僕らの卓に来る。僕も含めて少なくとも5人が死傷する。そのあとのことはよくわからない。それは一つの惨劇だが、全人類的な視点では全然かまわないことだったし、むしろポジティブな出来事のようにも思えた。もちろん部分最適化はただちに全体最適化を意味するわけではなかった。
それでしばらくすると店を出ることになった。僕は人混みの中で列から抜け出して全員の連絡先をブロックした。それで今日のうちに東京に帰れる交通手段か寝泊りできるところを探した。それでその日のホテルと次の日の夜行バスを見つけることができた。それでクレジットカードの番号を打ち込み、決済を済ませた。それでゆっくりとホテルに向かい、チェックインを済ませてすぐに寝た。
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次の日夜行バスに乗ってから携帯を開くと、熊のニュースの続報を見つけることができた。熊はそのあとも猟果を拡大させ、最終的に合計14人を負傷させた後、地元の猟師によってライフルで射撃されて殺された。丸々と太った大柄の体で、毛皮は黒だった。熊肉はシチューにされ、地元の料理店でふるまわれた。なんだこれ?と僕は思った。この記事にはどういった落としどころが想定されているのだろう?人を襲った熊がシチューになったことを読んで、読者はどういう気持ちになれば良いのだろう?惨事の終報として、シチューのことはあまりに突拍子がなく、文脈にそぐわない一節だった。
シチューになった熊について考える。熊は地球の支配者たる人間に刃向かい、大きな成果を残した。そして勇敢に死に、その死に様と終焉形態を人間にレポートさせた。それは強い輝きを放つ立派な命だろうなと思った。この世に生を受け、どれだけの命がこの熊に勝てるだろう。それで僕は目を瞑った。