Excessive Objectivity, Loss of Humanity
2024-12-11
行き過ぎた客観性はいくつかの弊害を引き起こす。それは概略として次のような問題点にまとめることができる:ずっと俯瞰の視線で世界を見つめていることで人間らしさが失われていく。
ひとつに、傾向として自嘲的になってしまう。たとえば何か感動的な映画を見たときに、それを1人称的な視点で受け取りつつも、その作品には感動的パターンのようなものが含まれているなと思ってしまう。そういったカテゴリに分類される1具体物だなという思いがよぎってしまう。また自分がそういうものを消費して情動を動かされ得る/動かされつつある1個体だなと状況を評価することもできる。
同様に、何か理不尽なクレームを受けてつらい思いをしたり、なにかしらの取り組みが賞賛されうれしい思いをした時も、それは一般的な経緯と一般的な偶然性とそこからもたらされる一般的な結果に表現づけることができるだろう。たとえ自分が法に触れたり、正常な思考を失うようなことになるとしても、それは繰り返されてきたそういった(一般的にあまり好ましくない)道のりに自分が乗ったということにすぎない。
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主観的に見てどれほどの悲劇であったとしても、それは極めて簡潔に描写されることが可能である。そのうえで拡散されたりされなかったりする。こういった客観性の獲得以後、自分は自分のことを慰めることも認めることもできなくなった。袋小路の中にいる自分を上からただ眺めているだけになった。僕が体験した出来事、体験している出来事、これから体験し得る出来事、そのどれものあらゆる出来事は、誰かが通ったなんらかのパスをなぞるということに抽象化される。僕は一度でも別のパスに踏み出せるだろうか? ───それはあり得ないことのように思える。
僕はそういう人を周りで見たことはあまりないが、たまに痛々しいぐらいそういう思想に身を慣れさせている人を目にすることもある。見つけるとすぐにわかる。傾向として頭のいい人がよくなる症状みたいだ。客観性───主観的なバイアスを排除したものの見方───は社会的なバランス感覚から来るもので、それはいくらか成熟した人格を示すものでもある。少しばかりインターネットを見て回ったが、こういう用語は見当たらなかった。とりあえずExcessive Objectivityと名付けておくことにする。
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自分が書いてきた日記もインターネット記事も全体的には自嘲というテーマでまとめられるかもしれない。もちろん僕は自己卑下、自虐、自己揶揄、そういった類いのセンテンスを延々連ねているわけではない。たとえば僕は風景描写の技能向上を(これまで明示的に宣言していたかは定かではないものの)目標として掲げており、それを担当するセンテンスは意識的に文章に含めてきたつもりだ。その日がどんな気温で、どんな空であったかというのは通常残存しない情報だし、そういうものを残したかった。心情描写もそうだ。感覚した情動を常に客観的なものに置き換えるのではなく、ただそのとき思ったことを思ったままの形でできるだけ残してきたつもりだ。それでも文章の根底にそういう自嘲の雰囲気が広がっていることを、自嘲というテーマが全体を貫いていることを否定することはできないだろう。
意識せず書いてきた文章が決定論的にそういった性質のものになってしまったことに気づいてみて、そんなに喜ばしい気持ちはしない。つまり僕がライターとして分析されることがあるなら、自嘲的日記書きというような属性を与えられるということだ。もうちょっと詳細に描写されるならこんな感じかもしれない:主にエッセイや自伝的小説をインターネットにアップロードしている。内容は日記的な出来事を中心とするが内省的な内容が多く含まれる。文章は自嘲的で分析的な描写を特徴とする。
特段自嘲性を意識して出力を行ってきたわけでもないのに、気づいた自分の特質が自嘲性だというのは、微妙な気持ちになるが、それは仕方ない。僕に配られたカードはこういうものなのだろう。僕にはハッピーでエネルギッシュな紀行文を書くことはできないし、人を勇気づけるような人生訓も、象徴的・幻想的で美しい抒情詩を書くこともできない。主人公的な物書きにはきっとなれないのだ。仮にそういうものを真似したとしてそれは内から来る自分の文章ではないし、自分が書く意味もないのだ。