好きな人に好きだと伝えることができない

2025-01-29

耳にピアスの穴を開けたのが去年の9月のことだ。耳に穴をあける一連の動作は、ためらいがなくさっぱりとしていた。紙に穴をあける穴開けパンチみたいな感じだなと思った。パチッという音が鳴って左耳に移行して、同じことをして終わりだった。その日は毛布を出してもいいかなと思えるくらい涼しい日だった。次の日から仕事だった。



期待や信頼について考えていた。仕事を再開し、職場で他者とかかわるなかで、無期待の精神みたいなものが自分の中に養われていることを感じる。そしてそれをさらに強く自分のものにしていかなくてはいけないという必要性も感じる。組織的な成果を出すためにも、自分の精神衛生を保つためにも、誰かを過度に信頼しないという考え方が必要なのだと思う。

前にいた会社の経営者が「出した成果と振り込まれた金額だけしか信用しない」と言っていた。彼は短くない間会社経営を続けてきており、僕が在籍していたときその会社はたしか7年目とかそれくらいだった。彼は騙されてきたことも何回もあると言っていた。具体的には「いつもありがとうございます、助かってます」とか「期待しています」みたいな虫のいいことを言っておいて、契約に含まれていない追加要求を打診してくる取引先とかがあった。「全力でやります!」とか言っていたのに全然コミットしないインターン生とか新入社員とかそういう人も見てきた。そういう中で彼は言動とか態度とかそういう表面的な要素で人間を信用することを取りやめたみたいだった。

翻って僕には会社経営の経験はない。それでも共感できるところはあった。都合のいい事を言って給料も上げないまま食い物にしようとしてくるアルバイト先があった。おかげですとか頼りにしているとか言っておきながら給与を未払いする会社もあった。それぐらいは僕も見てきた。

彼に限らず、とくにマネージャー職を務める優秀な人には、このような無期待に身を慣らしている人がそれなりにいる。人は最初から物事を疑うように生まれてくるわけではきっとない。多くの場合、そこにはかつて他人への期待が(少なくとももうちょっと)あったんじゃないかと思う。それは期待とのギャップで落ち込んだり、業務に何かしらの支障が出たり、あるいは裏切られたり騙されたりするなかで強化されていった諦念のようなものであるはずだ。そうして人は人に期待しなくなっていく。期待しないことに体を慣らしていき、期待しないことに洗練していく。



こういうのは仕事に限らず、もっとプライベートな人間関係の構築・維持においても一定当てはまるものだ。つまり家族とか友達とか恋人とかそういう関係性の上でもこういう手引きを一定活用することができる。僕はそう考えた。仕事で獲得した洞察を仕事の外に持ち込んで活用しようと試みることはごく自然なことのように感じた。その結果として最近は、言動や態度───「出した成果」にあたらないような、表面的な意思表示のようなもの───を根拠とした他人への信頼を見たとき、その脆弱性と危険性に目が留まるようになった。そんな言葉だけでその人を信じてしまうのってすごく危険じゃないですか?そういう言動や態度って全然信用に足らなくないですか?みたいなことを伝えたい思いに駆られるようにもなっている。前はそんな事別に思わなかったのになと思う。ちゃんと言葉で言ってくれると安心するとか、態度で示してくれると安心するとか、そういう考え方に対しては(優しい人が詐欺に巻き込まれる前の様子を見ているような)不安をおぼえる。

もちろん一口に言動とか態度と言っても色々なものがある。それに言動とか態度で何かを量るしかない場面もたくさんある。とはいえ、それにしても脆弱だよなと思う。



それでさらにその結果として───表面的な意思表示への無価値的な意識が本当にその原因であるかは定かではないが───好きな人に好きであると伝えることができない。それは僕が好きだとか愛しているとか伝えることは無駄なことだと思っているからではない。僕はちゃんとわかっている───言動や態度が脆弱であり信頼に足らないからといって省略していいということでもない。だからといって人は不安になるものだし、表面的な意思表示によって相手に自分の姿勢を明示することは必要なことだと思う。(言動や態度をはじめとする)表面的な意思表示を根拠として他人に信頼を寄せることは危険だが、そういう意思表示行為そのものに、いかなる問題が内在しているわけでもない。それに、僕としても言動や態度に全然心を動かされないかといわれると全くそんなこともない。だからこういう意思表示の不足が純粋な僕の不備であることは否定のしようがない。

それでもなかなか修正することができないから、問題点は理性よりも深い層に根付いているのだろう。恋慕的な行為にもいろいろなものがある。僕は、好きだと伝えるよりも、恋人に思いを馳せたり、その人が何を貰ったら喜ぶか考えたり、その人と会ったときにこのことを話そうと起こった出来事を書き留めておいたり、相手に見合うような存在でいたいと自己装飾や修養につとめたり、仕事を頑張ったりしていたい。隠された営みのほうがより大切なもので、尊いものだと直感する。それがちょっとエスカレートしていて、むしろ相手に伝わらないほうがいいなとまで思っている。相手に伝わらないことのほうが優れているという理性的な根拠を見つけることはできなさそうだった。直感は理性を介在しない。だからなかなか上手に制御することができない。



こういう(あまり合理的とは言えなさそうな)直感を説明可能なものに置き換えようと考えてみると、次のようなロジックに起こすことができた。ある行動が重要なものなのか、それとも無価値なものなのかの判断というのは、労力可知性による。労力と可知性、この2軸の量によって大体の価値みたいなものが算定される。労力が意味するのは(金銭的・時間的な)手軽さとか手間の大きさのことだ。ある行動を行うために時間がかかったりコストがかかったり手間がかかったりするなら、それは高労力な行動といえる。可知性というのは相手への伝わりやすさを意味する。ある行動が露出的であからさまで、相手に確実に伝わる確率が高いなら、それは可知性の高い行動といえる。

先に述べた言動とか態度とかそういった表面的な意思表示について特徴量を考えると、労力が低くて、可知性が高い行為だと分析することができる。

いろいろな行動はこれに照らし合わせると───2つの評価軸を提示しているので、当然のことではあるのだが───4つの領域のうちどれかに属するものとして分析することができる(つまり労力が低くて可知性が低い領域と、労力が低くて可知性が高い領域と、労力が高くて可知性が低い領域と、労力が高くて可知性が高い領域のことだ)。僕はそのうち、(表面的な意思表示たちが属する)労力が低くて可知性が高い領域に対しては、相手のことをコントロールしようという傲慢さみたいなものを感じて(そういう領域に位置する行動をとるとき、常にその主体者が相手をコントロールすることを意識してるわけもないのだけど、もし相手をコントロールしようと思うならば一番適している道具ではあるから)、なんとなく嫌悪してしまう。それに対してその完全な逆に位置している領域もある。それは仕事を頑張るということに代表される。労力が高くて可知性が低い。すぐに結果が出るわけでもない。一番跳ね返りがなくて効率が悪くて婉曲的な愛情表現がそういう領域にたくさんある。僕はそういう領域が好きだなと思う。そこには傲慢さがないからだ。