生活の原動力は不安

2024-10-27

10時10分に飛び上がるように起きた。働き出してから初めての10時を超えた起床だった。フレックスタイム制というのはそれに属する人間の起床時間をだんだんと遅くしていくための仕組みだった。僕がそういう仕組みの中に身を置いてからの行動ログで起床時刻の移動平均を取ると、遅くなっていることはあっても早くなっていることはなかった。これは良くない前兆だった。起きる1時間前くらいに夢の中で起床し、スマホにメール通知が届いているのを確認した。前職の総務からのメールだった。通知しか見れなかったから内容は分からなかった。



午前中はものすごく忙しかった。思い返すと入って一か月の新人だし、まだ大した仕事はしていない。それでも自分が知覚したところにはそうだった。朝すべき作業は先送りになって、13時くらいにすることになった。でもこの作業を朝すべきというのは、そんなことをどこかで聞いたことがあるというだけで、確証の取れているファクトではなかった。いつまでにやるべきなのかよく把握していないからとりあえず朝やっておけば安全だろうという理解があるだけだった。でもなんとなく遅れても特に問題ないような気配もあった。これは本当になるべく早く終わらせるべき作業なのかがわかっていないと、優先度が正しくつけられない。だからクリアにしておくべきだと思う。

僕は入って一か月の新人であり、換えの利かない仕事をしているわけでも当然ない。だから偉そうな言い方だが、自分なりに休憩を取ることができたのは14時くらいだった。ひたすらお腹が空いていた。それで休憩を取って、スパゲッティを2束茹でた。それを湯から取り出して2等分した。ひとつにはペペロンチーノの粉末ソースをかけて、もうひとつはわさびとマヨネーズをかけた。それを全然噛まないで食べた。ひと皿が空いてもう一皿に取り掛かった。口に入るぶんだけ順番に放り込んでいくような感じだった。こういうのはあまり良くない。炭水化物だけをひたすら入れていっても、眠くなるし体調が悪化する割に、満腹感は持続しない。それでもやってしまう。こういう非合理な活動にも説明はつけられるだろうか?こういう問題は逆説的だろうか?経済学の教科書には囚人のジレンマが載っており、それは非合理的な行動が必然的になされ得ることを示していた。そもそも合理性は普遍的な性質ではなく、常に特定のコンテキストに依存していた。それに人間は不完全であるという論拠もあった。だから考えてみればどこかしらに説明を見つけることはできそうだった。



15時くらいにある程度やることが片付いてしまったらとたんに暇になった。待つ以外こちら側からすることはできないタスクばかりだった。昨日あった雑談会が今日だったらもうちょっと本腰を入れて話を聞けたのになと思った。それで僕は研修の問題演習を進めることにした。前に一度提出した問題にバグを見つけたので、それを直す必要があった。それを直してついでにコメントを編集していた。バグを直したところでもっとこの解き方に改善の余地があることに気がついた。僕は複雑な問題をわずか3パターンに整理していたが、改めて考え直したら本当は1パターンだった。一生懸命整理して見つけた渾身のこの3つのパターンを捨てるのはつらかった。それなりに時間をかけて作った回答だった。でもどう考えても後に思い付いた解法の方が優れていた。だから僕は惜しみながら3パターンの説明を書いたコメントやソースコードを削除した。それで修正済みの回答を再提出した。

16時くらいに母が帰ってきた。母は朝から家を出て、祖父のところに行っていた。祖父は隙があれば(座っていてすることがなければすぐに)眠ってしまうと言っていた。ずっととろとろとしていて、車の助手席とか薬局のソファとかですぐ眠ってしまうということだった。年を取るとこうなっちゃうのかねえと呟いていた。母はサンドイッチを2つ買ってきて、食べればと言った。僕はパスタを大量に食べていて、おなかがすいているわけではなかった。しかし、行くところまで行ってやれという気になってチキンの方をもらうことにした。肉は薄かった。玉子とレタスのサンドイッチだなという印象だった。こういうどうにでもなれみたいな思いが暴食の根源なのかもしれないなと思った。抑圧的な感情の開放されたいという願い。圧力をかけられたものに生じる反発力。



夜ご飯を食べて、また外に出ることにした。僕は急に「エアーマンが倒せない」を聞きたくなった。ちょうど家を出る前に短期的で後を引かない腹痛におそわれたので、トイレで「エアーマンが倒せない」を聞いていた。聞いているうちになんか類似の曲でものすごい強い意味を持った曲がなかったっけ?と思った。僕はすぐにそのタイトルや歌詞を思い出すことはできなかったが、記憶をたどって調べていくとそれは「思い出はおっくせんまん!」だった。ゴムという歌い手がアップロードした動画(を他の誰かがアップロードしたもの)が見つかった。中学生の時にニコニコ動画のマイリストに入れて何度も聞いていた曲だった。今はほとんどニコニコ動画を開くことはなかった。それがYouTubeにアップロードされたのは17年も前のことで、ひどく音割れしていたが、素敵な歌だった。そこには「カレーとかのときに」という歌詞があった。僕は「こんな歌詞あるか?」と思ったし、当時もそんなことを思っていたことを思い出した。「とか」?こんな曖昧で話し言葉みたいな言葉がどうしてなにかしらの校閲をくぐり抜けることができるだろう?と思う。でもそれはそれでなくてはいけないと感じさせる力があった。「でも今じゃそんなことも忘れて何かに追われるように毎日生きてる」。そこで描かれた「今」みたいなところにちょうど自分も位置しているのだろうなと思った。社会に出て働き始めてからこの曲を聞いたのは思い返す限り初めてだった。僕は今にそれほど絶望していない。それは余地みたいなものが見えているからだろうなと思った。もっとこうしていかないといけないとかこういうところが不足しているから改善していかないといけないとかそういう足りないポイントを自己認識することができていた。それが純粋な自己成長欲求とかポジティブな感情からではなく、不安から来るものであることは少しだけ残念だった。僕はずっと(そんなことを望んだつもりはないが)不安を原動力にしていた。不安に押し出されるように進んでいた。ところてんの生産工場みたいな感じだった。僕はそのあと外に出た。TEAMねこかんの「エアーマンが倒せない」もゴムの「思い出はおっくせんまん!」はSpotifyには入っていなかった。かわりに「インターネット老人会」というプレイリストがあった。僕は「最終鬼畜妹フランドール・S」を再生した。そのあとに「初音ミクの消失」を聞いた。僕は「Bad Apple!!」よりも「ナイト・オブ・ナイツ」よりも最終鬼畜妹〜が好きだった。漢字だらけで威圧的なタイトルと不協和音を含んだ音楽。それでも心を震わせる。音楽と思い出の力は計り知れないほど大きい。

気づけばサブスクに払う金額が少なくない。Spotifyに980円。OpenAIに3010円。Amazon Primeに300円。任天堂に306円。AWSにも毎月1300円くらい払っている(主にこのウェブサイトを公開するため)。合計は少しだけ6000円に届かない。これに毎月の携帯料金も固定費として乗る。IIJmioから毎月引き落としを受けている。それは混雑した駅での繋がりにくさ(というか繋がらなさ)と引き換えに、それは1070円に収まっている。