高く品評された鯉のポートレート写真、去年の夏

2025-03-09

しばらく記事の更新が滞っていた。記事を書く気が起きなかったからだ。理由はよくわからない。出し切って書きたいことがなくなってしまったからかもしれないし、単純に忙しかったというだけかもしれない。とにかくまとまった文章を生成する動機が起きなかったので、そのままにしておいた。それで期間が空いたが、それは仕方ないことだった。

日記を書くのは続けていた。一日当たりの平均的な文字数はきっと少なくなっているだろうが、それなりに途絶えず毎日何かしらは書いていた。たいしたことは書いていないと思う。振り返ってみるとグミを食べたり本を読んだりプルコギを焼いたりしていた。スーパーに売っていた安いプルコギは焼いていると途中から甘いゴムみたいな本当に嫌な匂いがしたが、味は美味かった。「牛肉は元気が出るものである」とインターネットで耳にしたから買ったものだが、その効果ははっきりとは実感できなかった。



本はそれなりにずっと読んでいて、ゆえに、印象に残った本や他の人に薦めたいと思った本も見つけたり見つけなかったりしている。書評みたいなものを書いてみようと定期的に思うが、毎回断念している。この部分が良かったとかこれは初めて知ったとか平凡な感想以外に何も出てきそうにないからだ。あるまとまった文章に対して何か付加的な価値のある文章を出力できそうなイメージがないからだ。

それでも好きだった本を整理してまとめておくぐらいはしようと思ってここ一年くらいで読んだ本を見返していた。ちょうど半年前くらいの去年の8月に「増補改訂版 錦鯉の飼い方」という本を読んでいた。たしかAmazonで注文して読んだ雑誌みたいな大きさのガイドブックで、鯉の飼育方法や品種について書かれていた。僕はそこで昭和三色と大正三色という(鯉の品種を意味する)カテゴリの存在とそれらの区別の仕方について勉強した。その前には「日本で味わえる世界の味」という本を読んでいて、そのあとには村上龍の「コインロッカー・ベイビーズ」を読んでいた。



僕が錦鯉の本を買った理由は、たしか美しさが事物に(たとえば、鯉に)内在しているものなのか、それとも人為的に決定されるものなのか、という点が気になっていたからだと思う。錦鯉はその模様や体格の美しさによって評価され値段がつけられるが、その基準が(事前知識がない人間に対してもその美醜が明らかに判定できるように)本質的なものなのか、それとも取引の歴史の中で後天的に作り上げられたものなのかが気になっていた記憶がある。そのときどう思っていたかはわからないが、もし鯉の評価基準が本質的なものなのであれば、その評価基準を明文化したものは(鯉以外の事物にも汎用的に適用可能な法則かはわからないが、少なくとも一定のある文脈における)美しさの本質とも言うことができるだろう。

そういったことが気になっていたような記憶はあるが、結果として本を通じてどういう答えが得られたかというと何も得られていないような気がする。具体的な記述内容を追ったりたくさんの鯉の写真から自分が気に入ったものを眺めたりしているうちに先に述べたような問いが意識外になってしまっていたような気もする。あるいは僕が求めていたような総合的な評価基準みたいなものは述べられていなかったような気もする。評価基準が要素分解され非感覚的に表現されていたり優先度が明示されているということは(僕が見落としていなければ)その本の中にはなく、概して、この鯉はここが良いとか、この鯉はここに趣があるとか面白いという各論に閉じていた。振り返ってみると様々な鯉の写真とその評価とがセットになったデータはたくさん存在していたので、それらを抽出することはできたかもしれない。(あるいは、その本に載っていたのはおおむね高い評価を受けた鯉ばかりだったので、美醜の本質について考えるには不足したデータだったかもしれない。)



となると僕はなんでその本を読んだのかもよくわからないなと思う。僕がその本を通して獲得したと確かに言えそうなことは、上面から見た鯉のシルエットを、毛筆のストロークのメタファー的なものとして認識するというものの見方くらいだ。少なくとも鯉の評価基準は模様にとどまっているものではなく、外形は審査に影響することを僕は学習し、そのうえで僕の審美に沿うような鯉とそうでない鯉も見つけることができた。その個人的な基準はあまり明瞭に説明できるまでに至っているわけではないが、ざっくり言うとずんぐりしていたりほっそりしている鯉よりも、メリハリがあって力強く、かつ流線的な鯉が美しいというようなことになると思う(そしてそれは実際的な現場の基準からも大きく外れていないだろうと僕は推測している。なお僕の鯉の体形における審美は、その写真上で鯉が体をまっすぐにしているか曲げているか、という偶然的要素に大きく左右されているという欠陥を持っていたが、それはそのままにしている)。それでその美しさというのは毛筆の筆致の美醜と重ねて理解することができそうだなという感覚を持った。その感覚の獲得がどういった具体的有益性を持っているかはもちろん明らかではないし、また鯉の体形がこうしたメタフォリカルな理解を妥当にされうるとして、その美醜の決定因子が本質的/後天的なものか、という問いの解明に近づいた実感もない。