UDデジタル教科書体、醜さへ終着する流れの進行
2024-06-06
UDデジタル教科書体が発売されたのは2016年だという。
この文字のルックスについては次のような言及が可能なものと理解している。柔らかく角の丸い楷書で、線の太さが均一的である。柔らかく優しい印象がある。害のない優等生の女の子がフエルトペンで模造紙に書いた大きな文字みたいだ。女の子は髪を上品な二つ結びにしている。冴えないクラスメイトとも(必要があれば)嫌悪感を一切出さずに交流する。そこには介護のイメージがつきまとう。
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日本語フォントというのは相対的に、大体完了した製品ジャンルだと理解している。多くの人間は細かい字画の差異を気にしないので、(ある程度品質が保証されている)ゴシック体と明朝体があればそれで必要なものはほぼほぼ出揃っている。今は無料で高品質なフォントがそろっているから、日本語のタイポグラフィというのはそういう意味では既に完了している。このような状況下にもかかわらず、2016年に出たばかりのUDデジタル教科書体は勢力を拡大させ、様々な場面で使われるようになった。とにかくあらゆるところで見かけるようになった。フォントの成功をその使用の広がりと定義するなら、近年、ここまで成功したフォントは他にない。
たとえば、アルバイト先で新人に渡すWord文書が教科書体になっていたりする。あるいは規模の大きくない料理屋のチラシがポストに投函されていて、そのキャプションが教科書体になっていたりする。またあるいは、「黙食」をすすめる学食の掲示に使われていたり(そこには介護のイメージがつきまとう)、吹奏楽の県大会だか全国大会の入賞をたたえる高校の横断幕で使われていたりする。
もっと衝撃的な事実として、字幕としての利用も珍しくないということがわかってきた。歌詞テロップが教科書体のミュージックビデオがYouTubeで公開されていた。当然みたいに公開されていて、当然みたいに友達がおすすめしてきた。これは教科書体じゃないか?なんで教科書体を使っているのだろう?友達はそんなこと気にも留めていなかった。別に普通じゃない?と言った。それで僕はその曲のノリとかリリックとか、別のところに適当に共感しておくことにした。
また別の日にはこういうこともあった。JRに乗っていて、特にやることもなかった。それで間を埋めるように電車内ビジョンに目をやっていた。小池百合子が出てきて、何か呼びかけていた。電車内ビジョンは音声を発さない。ゆえに無音で伝わるような映像を作る必要がある。そうではないなら、広告主は金を払って無意味な数秒間か数十秒間を提供することになる(それが型破りとして成立することも考えられなくはないが)。あるいは親切にもそういう映像をはじいてくれる審査が存在しているかもしれない。小池百合子が呼びかける内容には教科書体で字幕がつけられていた。制作にかかわる誰かが教科書体を通じてメッセージを頭の中に送り込むことを選択していた。こういうことは、多かれ少なかれ、オフィシャルな場での利用オプションとしてこのフォントが進出していることを意味する。
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でもこの文字は美しくない。 今はまだ見慣れていないだけで、もう少し経てばすぐにそんなに悪くないような感じがしてくるんじゃないか?───その時は訪れなかった。この文字のルックスに適応することはどうしてもいつまでたってもだめだった。美しいものを美しいと感じる力が本能的に人に備わっているなら、美しい事物には不変の美しさが宿っているといえるだろう。そして美しくないものを美しくないと感じる力が本能的に人に備わっているなら、美しくない事物には不変の醜さが宿っているといえるだろう。
どのあたりが美しくないんですか?───美しくないだろ。お前は不味いもののどこが不味いか説明できるのか?ニンジンが嫌いで、それは不味いからだとする。じゃあ何が不味いんだ?甘いから?そのあたりで有効な説明ができないことに思い当たる。こういう感覚的な判断の理由付けはいつも後付けになる。それでもこういう文章を書いているわけだから、一定のポイントは記載しておこうと思う。でも繰り返すが、下に示すような要素を合成したら、ただちに美しくないという結論に至るわけではない。先に審美的な直感があり、理由はあとから考えたものにすぎない。
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はじめにその線についてどういうことが言えるだろう?はねやはらいは太さが一定で、コントラストがないから、線に緊張感がない。筆の動きは削除されて、痕跡を読み取ることもできない。それゆえに、切れ味みたいなものや迷いみたいなものも感じられない。
さらには、骨格にも共感できない。間延びしていて、スペーシングの美しさを読み取ることができない。良い空白には、カチッとそこに収まるような安心感がある。あるべきものがそこにあるというのは快いものだ。物事があるべきところからずれているというのはノイジーで、気持ちが悪いものだ。ゆったりと伸びやかな印象や生き生きとした息づかいはそこにはなく、ただただのっぺりとして、奥行きがない。
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全体としてUDデジタル教科書体は、まず見出しに使うべきものではない。ヘビーウェイトのシリーズも用意されている。でもこれであってもタイトルに使おうと思わない。インパクトを与えないし、洗練性も印象づけない。本文に使うならどうか?多分適してはいるんだと思う。この書体は小さくてもつぶれず、読みやすいように設計されている。だからそういう場面に適した能力をそなえている。美しくないことを除いて、こういう利用は合理的だ。結局のところ、明確な意図に沿った正しいフォントの選択に異議はない。どんな書体にも罪はないし、それぞれの書体には向いている場所と向いていない場所がある。教科書体はいろんなところで使われていた。それは料理店の従業員の自宅や、公立高校の職員室や、どこかの映像スタジオでだった。彼らは何がしたかったのだろう?強調がしたかったのか?スマートなブランドイメージを強化したかったのか?温かみを演出したかったのか?もっとガツンと分厚い書体を選択するべきだったり、もっとシャープで端正な書体を選択するべきではなかっただろうか?
いやいや、そんなことみんな考えてないですよ。毎回どのフォントにするかを考えている暇なんてないし、大差ないでしょ?こんな感じで思案なくUDデジタル教科書体が使われるようになっていく、そういう未来を考える。レストランのメニューはUDデジタル教科書体で組版されている。料理は味が薄く、ほんのすこしだけ茹ですぎで、チープな味がする。こういう世界だ。教科書体はディスクレシアにフレンドリーなフォントとしていっそう知られるようになっていく。そういったもろもろのことを個別事象の一例として巻き起こしながら、世界はユニバーサルデザインの理念にもとづいて、境界のない世の中に進行していく。ああ、それは素晴らしいと思う。ここまで世界の美しさを損なってまで僕はしたくない。目にするテキストがだんだんと教科書みたいになっていくのなんて勘弁してほしい。そういう個人的な声は流れを変える力を持たず、流れはよどみを含みながら強い力で渦巻いていく。そうして世界は一つの完成形に行きつく。配慮の行き届いた、ユニバーサルで、人類愛で、均一的な世界。それはすごく醜い。