静かに失神するみたいに
2025-03-22
家の近くのスーパーにはパン売り場があり、毎日、ホールのアップルパイが充分にスタックされている。それはプラスチックトレイに入った、スーパーのオリジナルのパンであるため、おそらくは店の中で焼かれたものなんじゃないかと思う。22時くらいにそこに行くと、もう惣菜も寿司も大体はけていて(惣菜売り場はパン売り場の横にある)、他のパンも一切残っていないのに、アップルパイだけが4つくらい積まれていたりする。
ならば、それは長時間置いておいても差し支えのない製品なんじゃないか?と推測して製造年月日と消費期限を照合してみる。でもそれらの差はせいぜい2日くらいしかない。つまり他のパンに比べ、たいして日持ちがする廃棄の心配が少ないパンであるというわけでもないということだ。それは普通に考えてちょっと作りすぎてるんじゃないか?アップルパイはキラキラと光沢しながらいつもスタックされている。それはとても美味しそうだが、ホールサイズのアップルパイを買って鍵穴の一つしかないアパートにもどり、ひとりで黙々とそれを食べるはずもない。処分の迫りゆく焼き菓子の横を、そういうことを考えながら通り過ぎる。
そういった毎日を過ごしている。
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今日は3月の中旬だった。電車で立川まで行って献血センターに向かった。前に行ったのは去年の8月だったが、そのときは検査項目に引っかかって途中で終わりになってしまった。そのとき献血に行ったのはなぜだっただろう?働いていなかったからだろうか?
立川には電車一本で行けるかと思っていたがそれは勘違いだった。通っていると思っていた路線に立川は含まれていなかった。そのため、立川に着くまでにはそれなりに時間がかかった。駅にはちょうど献血の協力を求める立て看板を持った人が二人いた。今日は60名の献血が必要ですとそこには書いてあった。
立川に着いてから献血に行く前にまず回転寿司に行って、それからブックオフに行った。ショーペンハウアーの岩波文庫を一冊買った。400円だった。ぐだぐだと歩いていたら結構夕方になって、もう16時半くらいだった。歩いている間はずっとCHOBO CURRYの審査員スペシャルサイファーだけど全部俺の声を聴いていた。YouTubeでしかそれを聴ける手段はないので、動画を流したままスリープしないでポケットに入れていた。僕が契約しているモバイル通信容量はあまり多くないが、どうしてもそれが聞きたかった。
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献血センターは営業時間が17時15分までということになっていたがまだ献血は受け付けられていた。僕は受付に行き、①前に一度来たが検査項目に引っかかって途中で帰ったこと②献血自体の経験はないこと を伝えた。それでロッカーに荷物を入れて血圧を測るよう指示された。
6ヶ月以内にピアスの穴を開けていたことはなにかしらの項目には引っかかったようだが、でもまあ採血は可能ということになった。検査の項目には、項目として存在はしているものの実施の可否自体にはかかわらないものがあるみたいだった。あるいは、あまり意識していない間にピアスの大項目の中に設問されている小項目に分岐して、それで問題なしと判断されたということなのかもしれない。
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採血がなされている大きな部屋に入ると、看護師による問診があった。朝起きてからこれまでにどれだけ水分を取ったか聞かれたが、数えていなかった。さっき待合室にいたときにコップ2杯分のドリンク───ホットのバニラオレと冷たい緑茶───を飲んだということだけが確実に言える定量的なファクトだった。多分1Lは飲んでいないが500mLは飲んでいるだろう、と言ったら若干厳しい顔をされた。そのあとに立ちくらみはないですか?と聞かれ、たまにあると伝えると、そこでもなんか重くて怪しい空気が流れた。ヘアオイルを少しだけ付けすぎている、綺麗な髪で綺麗な顔の看護師だった。でもまあ採血に進めることになった。
血液型を測るために右薬指から少しだけ血を取ることになった。ピアッサーみたいに瞬間的に針が開放される器具で薬指に傷をつけ、にじむように血が出てきた。血液はA型に反応していてB型には反応していないということだった。簡易検査なのでRhがどうとかはわからないが、A型であることはおおむね間違っていなさそうだという。でもあとでその詳細な結果がたぶん郵送されてくる。
400mLの採血が予定されていた。椅子に座ると両耳の後ろに備えつけられたスピーカーから音声が流れてきた。正面に設置されたテレビ───それぞれの椅子には専用のテレビがセットされており、血液提供者はひとりひとり自由に視聴ができるようになっていた───で流れている知らないアニメの音声だった。僕は大学生のときに行ったユニバーサル・スタジオ・ジャパンのバックドロップというアトラクションを思い出した。あのジェットコースターの椅子もちょうどこんな感じだった。このようにして、西東京の献血センターと大阪ベイエリアに位置するアミューズメントパークに共通点を見いだすことができた。
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採血を実行するのは問診をしたのとは別の看護師だった。左腕の肘関節の内側部分に(少なくとも)2本の血管が通っているようで、そのどちらにするかを看護師は吟味していたが、結局、外側の血管に針を刺すことになった。針はまあ痛かったが、そこまでの強い痛みではなかった。針が刺されたあともどうなるのかを僕は怖がっていたが、刺した瞬間の痛みよりも強い痛みは以降ないと言われて安心した。看護師はもしこれより強い痛みがあったら、それは異常事態です、みたいなことを申し添えた。まるっきり起こる可能性のない冗談を言うときの、括弧笑いがついているみたいな言い方だった。それは本来、真剣な顔つきで伝えられるべき重要事項のように見えたが、そこにはあまりにも危機感が含まれていなかったので、僕はなんか面白く思った。椅子から上体を起こすと血液が通り抜けるチューブとその格納先であるバッグを見ることができた。バッグは箱の中に入り、円盤のようにぐるぐると回転していた。この動きによって血液が吸いだされているのだろうか?───ならばそれは人工心臓みたいだなと思った。
血液の採取が始まって5分くらいで足がちょっと痺れるような感覚がした。そこで本当はこれもうストップしたほうが良いのかもしれないなという不安がよぎったが、クリティカルな危険性を感じたわけでもなかったのでそのままにしていた。そこまでの時間で割とまとまった量の血が抜けていった感覚があったので、もうそろそろ終わりかなと思ったりしたが、そのあたりで「今ちょうど4分の1くらい終わりました」と聞かされた。
右手だけを使ってウィトゲンシュタインの色彩について(ちくま学芸文庫)のページをめくっていた。8割ぐらいは何を言っているかよくわからない。同じ意味の命題が何回か書かれていても僕は気づかないだろうし、実際に書かれているような感じもした。採血の途中にカイロ(温かい)を渡された。左手でカイロを握ると血がどくっと流れて血液の太く送られる感じがわかった。多分採血のスピードを早めるにはこの血流の太く送られている状態をキープすることが大事なのだろうと思った。でも別に特段急ぐべき理由もなかった。最初の5分のあとはしばらくしても別にそこからの状態の変化はなかった。足の痺れもそれ以上強まっていかなかった。
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今で3/4くらい終わりました、と言われたあと、看護師が全然様子を見に来なくなったので、そこでまた少し不安になった。採血量が400mlに達したら自動的に抽出をストップさせる機構のようなものはこの機械に備わっているのだろうか?───それは僕にはわからないことだった。僕の推測───傾向として悲観的だ───によるところでは多分そういった機構は存在しなさそうだった。モニターみたいなものが(僕からは見えない角度だったが)ありそうだったからだ。そこに現在の血液抽出量が何ミリリットルと表示されていて、良きところで看護師が止めるという運用になっているんじゃないかというのが僕の見立てだった。その仮定の上でこのまま設定量を超過したことをしばらく気づかれなかったとして自分で針を抜くわけにもいかない。そこで何人かの看護師たちに握られている僕の生殺与奪権のことを───それは妄想であるかもしれないにもかかわらず───くっきりと意識した。
だが結果としてその不安も杞憂に終わり、15分か20分くらいで隣の人についていた看護師が終了を知らせてくれた(僕に針を刺した看護師が戻ってくることはもうなかった)。看護師はクリップみたいな器具を使って管に残った血液をバッグに送り出した。その所作は素早く洗練されており、それはこれまでに積み上げられてきたバッグの数の多さを暗示していた。たったいま自分の体内から取り出された血は思ったより赤黒く、大きく泡立っていた。包帯みたいなものを巻かれて、それで終わりだった。待合室に座って30分経過するのを待つように指示された。
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待合室に戻ってから立ってみても歩いてみても異変はなかった。僕はホットのミルクコーヒーとホットのココアを飲んだ。途中でトイレに行くときには───それはそのとき意識が残っていることを必要条件とはするのだが(条件は特にこういう状況下において、常に満たされているようには見えない)───助けを呼べるよう、受付につながるブザーを持たされた。僕はそれを首から下げてトイレに向かった。座って用を足すようにと待合室のポスターに指示があったが、それは守らなかった。
規定の時間が経ち、おわりにカードを渡された。ペットボトルの水とブルボンのプチうましおプレッツェルを貰った。待合室を出るのは僕で最後だった。Google Mapsに記載されていた献血センターの営業時間はもちろん過ぎていた。そのため、申し訳ないなと思った。
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帰りの電車は混んでいた。電車ではできれば座るようにと僕は指示を受けていたが、他の誰かが僕に席を譲り得るようなサインはなかった。着ていったグリーンのコート、その下の長袖のパーカーのさらに下に包帯が巻かれているだけだった。
家に帰ってヨーグルトに蜂蜜をかけたものを食べた。明日は休職していたメンバーが戻ってくる。何を話していいかわからない。