ドーパミン中毒のガキ

2025-11-11

いつだかのフリースタイルダンジョンで舟平/SAMが示したように、我々はpropsとcrocsで韻を踏むことができる。私はドーパミン中毒のガキであり、今は2025年で、スタンダールやヘンリーミラーがまだ読むに耐えるものなのかはよくわからない。多くの古典哲学、戯曲、古典小説、というのはすでに現代人がなしている観念の共有的な胎盤のようなものにほとんど完全に取り込まれていて、教訓的な新規性をもはや持たず、またエンタメという観点からも、それらはTikTokと戦うことを前提として創作されたものではなく、気の毒ではありながら、ほとんど価値を持たなくなってしまっているか、または競争優位性を考慮したときに我々の限られた時間の使い道として脱落している。

そもそも言語というものが若干そうであるのだが、とりわけ小説というのは、芸術性とか文学性とかそういう鎧によって守られている、という厄介な性質を持っていて、古典的名作みたいないくつかの大層な小説が権威性を持ち、祀り上げられていて、なんとなく否定できない雰囲気の中にある。それは我々が正しくテキストを抽象化できないからでもあるが、仮にそれができたところで、小説は「一定の意味や教訓だけのために私はあるのではないのだ」と言って、自身の価値が芸術性によって保護されているということを主張しながら、さもそれが逃げ込んでいるのではないかのようになめらかに不可侵領域に移動するだろう。

だからといって、文学のひとつひとつを、これは空気感がすばらしいんだとか、世界観が完璧なんだみたいな、なんとなくいいものであるという曖昧模糊としたものとして扱っていくことに、僕は強く限界をおぼえる。村上春樹の推薦文とか感想のうち、「村上ワールド」みたいな、噛み砕かれていない、思考停止じみたものを除いて、どれだけの数が残るだろう?文学に対してそういう捉え方をしているうちでは、文学はいつまでたっても説明不可能なままなのだし、文学が/文筆家が目指すべき場所やコミットするべきクライテリアも判然としないままなのだし、「オオカミちゃんには騙されない」と比較することもできないのだから、結局漠然としたそれっぽさとか、ディスプレイ化された感覚の古い知的さ、文化的なものに対する表面的な憧れ、のために小説を読むということになる。

文学の武器自体、そういう脆弱な実態のない基盤にあるようでは、凋落は止めようもないのだし、そういった読み方をしていては我々は文学に向き合うことさえできていないと僕は思う。それなら、過度な単純化かもしれなくとも、そのテキストの価値をエンタメであるとか、思想的新規性であるとか、知覚様式の転移可能性だとか、はっきり言い切ってしまったほうがいい。価値基準が機能不全になっているから、なんとなく生産された文章でもなんとなく作品に見えてしまい、だからこそ本当は価値がないテキストが、無制限に世の中に流通していて、テキスト空間は意味のない文章で飽和していて、(それは美術空間とか音楽空間と比較しても、ことさらひどい有様をしていて、)価値のあるテキストよりも価値のないテキストのほうが読まれていて、また古典的名作もよくわからないまま評価され続けている。そこで読まれているのは内容ではなく権威性で、それはプロップスによって形成されている。

なお、僕には文学部を出ている友人がいて、彼女は「ライ麦畑」と「グレート・ギャツビー」を読まなきゃ、と四年間の間言い続けている(それはいっこうに読まれない)。僕は「あなたはそれを別に読むべきでない」と、今では彼女を説得することができる(たぶん)。とはいえ、それについては別の機会に回す。